数字が嫌いだ。数学はもちろん、化学も、年号が出てくる歴史も大嫌いだ。授業どころか自分の結婚記念日や子供が生まれた年すらもすぐには出てこない。今まで子供の関係で幾度となく役をやってきたが会計だけは避けて通ってきた。お小遣い帳もまともにつけられなかったのに、わけのわからない金の出し入れを把握できるはずがない。使い込むことこそなくとも、私に帳簿をつけさせると大変なことになると自覚している。決して謙遜ではない。考えたらそもそも算数からして嫌いだった。文章題がいけない。読めない。意味がわからない。というより解く意味がわからないのだ。一日これだけの仕事を何人でやればどれだけで、それを半日だけやったから何人でやって・・・・とか。Aくんは何分に家を出て時速どれだけで歩いて、Bくんはそれより一分遅く家を出て同時に着くためには、どーしたこーした、・・・学校までの距離を求めろ・・云々。ソレ、そんなに知りたいか。
いろんな計算式になじますためにさまざまな問題を解かす。食いつきやすいように手を代え品を代え小学生にわかりやすく説明しているのだということに大人になってようやく気づいた。だが当時は無理な問題に悩んだ。物語性を求めた子供としては設定とかプロセスなどがとても重要だった。なぜ、そこまで仕事をきっちり分けるのか。早く終わる人がいれば他の人を手伝うだろう。天候や体調によっては同じペースでコトは運ばないだろう。はたまたなぜ、AくんとBくんは一緒に行かないのか。一分くらい待てばいいではないか。それとも二人は仲違いをしているのか、家同士が仲が悪いのか、それではロミオとジュリエットのようではないか。一分を重視してまで同時に到着しなければいけない学校とはどんなところなのか・・・。数字大好きの子なら即座に飲み込み、楽々と計算できるのだろう。私の場合どうしても枝葉のところで気を取られてしまった。
無理な設定と言えば算数だけではない。中学に入った頃の英語の教科書だって笑える。限られた語彙を駆使して会話を作れば限界があるのだろう。特に習い始めの教科書は強引だ。初対面のあいさつもそこそこに、いきなり年を聞いたり(今ならパンチだ)、兄弟や両親のことなど立ち入ったことに触れたり、背が高いだの低いだの身体的なことにまで話が及ぶ。そうかと思えば鉛筆が何本で教科書が何冊鞄に入っているなどどうでもいいことを説明したり、挨拶もそこそこにいきなりそれはオレンジかボールかなどと訳の分からないことを聞く。だいたい普通見たら区別はつくだろう。それともナニか、よっぽど特殊なものを持っていたのか。聞かれた方もすましてこれはボールですなどと答える。そこはツッコミどころではないのか。さて、そこから会話が広がるかと思えば、あっさり会話は中断され唐突にお元気でなどと別れてしまう。おいおい。まったく教科書に出てくる人たちのフランクさやドライさには恐れ入る。・・・てな具合にしか教科書を読んでいないから私の学力など知れたものだ。でも、今でもそういう目で読むと非常におもしろい。
問題をよく読みなさいとはよく言われることだが、読めば読むほどわからなくなることもあるのだ。